心の整理と死生観について:私は子どもカサンドラ

辛かった幼い頃の自分の気持ちを押し隠すのをやめて、受け入れ認めながら、今までを振り返りつつ、生涯をかけて、心の整理をし、これからの生き方・考え方を私なりに模索していくブログです。

心の整理、モノの整理

疲れがなかなか抜けない身体になった

今までは疲労を感じながらも

疲れた状態で動いていた


明るく元気に倒れるまで動いては(躁状態)、

疲労が溜まっている事に気が付かず、

燃え尽きて無気力・精神不安になる(鬱状態)を


ずっとずっと、繰り返していた事、

躁状態の自分が

「普段の平常な私」だと思っていた事。


これらの事に気づいて、理解し、

気をつけるようになってきた


いくら頑張ってやり抜いても、

悲しんでいても、泣いていても、


父も母も、

ただの一度も

「子供を褒めてあげる」「共感してあげる」を

幼かった私にしない人たちだった。今でも。


「頑張ったね」「辛かったね」「悲しいね」

という共感を示してくれることも

ただの一度もなかった。

日々が不安だらけの子ども時代だった。


父はよく、仕事がらみで、

お付き合いのあった方の息子さんの話を

何度となく話題にしていた。

その方の息子さんは、

ある有名大学に合格し、

下宿代を出せるほどの余裕がないため、

自宅から

毎日電車🚃で2〜3時間かけて

通学しているそうだった。


その方が

「(別にこちらが無理に言った訳ではないけれど)

勝手に入って勝手に行ってるんですよ」

とおっしゃっていた事、


父はいつもその話を

嬉しそうに、楽しげに、事あるごとに、

声高らかに、

その方の口調を真似て話していた。


「凄いなあ」「親御さんは遜ってそう言ってるんだろうなあ」「でも自慢の息子さんなんだろうなあ」と、聞かされるたびに私も楽しんできいていた。


何度となく聞かされるうち、いつしか

私もこういう感じなら、父は

「嬉しそうに褒めてくれるのかな」

とも思うようになった。


でも「私にはできないなあ」と感じたのを

よく覚えている。


まだまだ頑張りが足りないから

褒めて貰えないのかな、

こんな事くらいで泣いている自分が

間違いなのかな って。


「私はポンコツなんだ」と無意識に

思ってきたんだ。

「そのまの私ではダメなんだ」


そう思わされてきた事が

そもそもの発端であることにも、

最近やっと気がついてきた。


やっと最近になり、

そういうのをやめられるようになってきた。

自分を休ませてあげなきゃ、

もういいよ、そのままで。って、、、。


整理はついたが、心がスッキリしたわけではない。でも発端がわかった。

今はただそこの段階。


今日は、

心の整理だけでなく、モノの整理もする。

ヘビロテしてきたお洋服。 

寂しくなる。だって、

とても気に入っていて、

何度も洗いながら大切に何年も着てきた。

ありがとう。