心の整理と死生観について:私は子どもカサンドラ

辛かった幼い頃の自分の気持ちを押し隠すのをやめて、受け入れ認めながら、今までを振り返りつつ、生涯をかけて、心の整理をし、これからの生き方・考え方を私なりに模索していくブログです。

ひとりっ子であることへの偏見・母の私への不満と怒り

小学生になったあたりからの話です。「ひとりっ子はわがままになるよ〜かわいそうだから、もうひとりいた方がいいよ〜」という言葉をよく耳にするようになりました。


その言葉には子どもながらにも、違和感のあるもので、あまりにも何回も聞くので、だんだん耳障りで、不快感に変わっていきました。


私が育った地域は、時代的なものもあったとは思いますが、

ひとりっ子率がとても低く、

ひと学年80名前後で、

5本の指に入るくらいしかいなかったのですが、

私はそのうちの一人。


まだ1年生くらいの時、

その中の、ある子に対して、

「あの子は甘えん坊でわがまま」という、ネガティブな意味合いの噂が流れていました。

そんな噂を耳にしてからでしょうか、まもなく、転校していきました。

後日談で、その子は、いじめを受けていたらしく、ご両親がこの土地に見切りをつけて、早々に転居したそうです。転校先では、彼女は活発になり、とても元気に通学しているという話も耳に入ってきました。


少数派に対して、異質なものに対して、排他的なこの雰囲気があり、その頃、他の要因もあり、またこれは後で書くつもりですが、

既にこの土地に住むのが何となく嫌で、自分には合わないなと思っていたので、

転校していったその子が

羨ましくて仕方なかったのを覚えています。


当時の女性担任教師も然り、

「太生谷さんの机の拭き方はおかしい」「こう畳んで拭かないとダメでしょ」と言い出したと思いきや、


他の生徒の前で、

「これだから、ひとりっ子は甘やかされてて何にもできないのよね〜(ふふふ…)」と、小馬鹿にしたうす笑いを浮かべて言い放ったのです。

私はものすごく赤面し、ことばが出なかった思い出があります

😣😰


普段から、「ひとりっ子は、どうのこうの、、、」とネガティブな言い方に辟易していたので、

先生にまで、しかも、

直に言われたのは、

もう「恥」でしかなく、

理不尽なことだな、とも思っていました。


その日は、どうしても、

納得できない気持ちを、

母に聞いてほしくて、

元気をなくしつつ、帰宅したのです。

その頃の私は、あの学校の雰囲気が合わなくて、やっとの思いで通学していました。「ただいま!お母さん、あのね、今日ね🥺、、」と聞いて貰いたくて、

縁側から入りました。しかし、

私の顔を見るや否や、


「おかえり」のひと言もなく、、いきなり、ベラベラベラ!!っと次のようにまくし立てる母でした。


「何で今日(授業参観で)手を挙げなかったのよ!😡あの問題の答えくらい分かってたでしょ?😡」


大袈裟かもしれないですが、

子どもの私にとっては、

よろけて倒れそうなところを、

バッサリ刀で切り裂かれ、

踏みつけられたような感覚でした。


身体も動かず、何の言葉も発することが出来ませんでした。

「あゝ そうだった、授業参観だったんだ😨と思い出しました。


母は不機嫌な顔で無視、

目も合わせてくれず、

何も話しかけてはくれませんでした。

今日の学校でのことは、とても話せる状況ではありませんでした。


当時、人前で発言するなんて、

とてもじゃないけど、

出来なかった私は、

「あゝ、何て自分はダメだな」とがっくりして、虚しさを感じつつ、「次は頑張らなくちゃ、また叱られるかな😣」と焦りを感じていました。


4歳5歳の時に、夜に放り出された日も、この日も、「どうして私はここで生てるんだろ😔」「もういなくなりたいよ😔」という気持ちでいたのを、ハッキリ覚えています。

子どもながらにも、

「家出をしようか、でも家出をしたところで、大した距離は行けないし、引き戻されて叱られるのが関の山だな、このまま我慢するしかないな😣」と考えていた私でした。



空を見上げながら、

4〜7歳の子どもがこんなことを考えていたなんて、やはり信じては貰えないでしょうかねえ。


でも、今は違います。

ため息ではなく、深呼吸して、

木々からの酸素を頂き、

身体じゅうに巡らせています。

☺️

続きます