心の整理と死生観について:私は子どもカサンドラ

辛かった幼い頃の自分の気持ちを押し隠すのをやめて、受け入れ認めながら、今までを振り返りつつ、生涯をかけて、心の整理をし、これからの生き方・考え方を私なりに模索していくブログです。

母が私に言った残念な寂しいひと言、、、それらの辛い過去を掘り出してからの、気持ちの変化について

次の授業参観での出来事。

前回、母が私にまくし立てるように怒られたので、今回は、勇気を振り絞って、手を挙げました。

何と私が指されて、黒板に「4」とチョークで書いて、席に戻りました。答えは正解でした。

席に着くなり、緊張がほどけたのを覚えています。😂🥲


と同時に、「今日帰ったら、きっとお母さんは喜んで誉めてくれるかも😀頑張ったねって何か言ってくれるかな😀」と、、、🎒


家に入る前からワクワクしながら

「ただいまぁ〜!😀」

と縁側から中に入ると、

こたつに座っている母がいました。


でも、母の口から出てきたのは、


「なんだ出来るんじゃない😒」

と無表情でのひと言、、、


前回は不満をぶつけてきたから、

今回は「今回は手挙げられたね!

正解したし、よくできたね☺️」

ってにっこり、笑顔で言ってくれると、期待していたのですが、、


全く違う返答で、がっくり力が抜けてしまいました。🥺😔😔😔 


そもそも、母は私があんなにドキドキ緊張しているなんて、気にかけもしなかったのですから、

そんな言葉が出てくるわけないんですよね。


期待した私がバカだったなと、

大人である今は思います。

こういう点で、私が7歳の私を否定して粗末にしているんですよね。今、気がつきました。


当時は、7歳の子どもです。

そう思った自分がバカだったなんて、

思わないですよね。  

「何で?喜んで誉めてくれないの?」

「何で?何で?誉めてよ」って

思って、欲するのが当たり前です!


相当がっくりし、

「お母さんは私のことを好きではないんだな」と思ったのも覚えています。

当時のわたしは、

「そんなことを思うのは気にしすぎだ、

好きじゃないなんて考えたくない、

本当はそんなこと思われたくない」

という気持ちを「持たなきゃ」と

無理してなすりつけていたような気がします。


自分が本当はどう思っていたかを代弁して、

「そう思うのは当然なことだよ」と

認めて、強調してあげる作業も必要だと

思いました。


今母親になった私なら、いや、

母親じゃなくてもだ!

あの場にいたら、

あんなに勇気を出して手を挙げた幼い子どもに、こんな対応はしない、、

「良かったね、ドキドキだったよね、勇気を出して頑張ったんだね、お母さん、ずっと見ていたよ、すごい😀😊」って、一緒に喜んで、抱きしめるのにな。

過去の私にそうしてあげたい。

と心から思いました。


今まで「自分で自分を褒めてあげよう」とアドバイスを貰っていたのに、無意識に「胡散臭い」「自分が褒めてあげたところで、効果なんてない」と、実行してみてもなんだか違和感しかなかったのです。


でも、今回は色々と振り返り、膿を出しをしていきます。(洗いざらい書き出していきます)

今までは、

「本来なら親がやるべきところなのに!

父や母に言って欲しかった😔」という気持ちに執着していました。当たり前です。


だから、それは消し去らなくていい。

今はとりあえず横に置いとくだけ。

そして、

幼い私の心を、満たしてあげよう、

という気持ちになってきました。

頭の中でハッキリと、自分の心を包み込んであげるようなイメージができるようになってきました。

たった今、です。 


ただ、まだ今の段階では、

幼ない頃の私は、ひとつ満たされただけです。まだまだ足りない。

これからは、

過去をひとつひとつ!ふり返り、

幼い頃の私の心を、

ひとつひとつ満たして行こうと思うようになりました。


この先、

子どもの頃のわたしが、

果たして心が満たされるのかは、まだわからないですが、

とりあえず、やってみようと

思っています。


私の名前についてですが、

母は何度となく、私に向けて、

「他の名前がよかった、◯◯子ってつけたかったのに」また、「◯◯ちゃんの名前、きれいでいい名前よねえ」といつも話していたので、

私も自分の名前をいつのまにか、好きになれなくなり、

無意識に嫌いになっていました。


いつ頃から母は名前の不満を言わなくなったのか、、覚えてはいないですが、小学生の頃はいつもふとした時に、それを私に何度も話す母でした。


私の名前は、母方の祖父が、 

街の中心に位置する、

地元の神社⛩にわざわざ出向き、

神主さんから頂いてきてくれた

いわば神様がつけてくださった

名前なのです。


それでも母は不満なようでした。

不満を口にするのが常だったので、無意識に言っており、無自覚なまま亡くなったと思います😣


中学生の時に、クラスの女の子が、いつも「いい名前だねえ」と言ってくれていたのに、

心の中では「どうしてそんなふうに思うのかな、こんな名前ちっとも良くないのに」って喜べない自分でした。今考えると、彼女にも神様にも、失礼だったとお詫びしたい気持ちでいます。最近、幼馴染の子のかわいい娘ちゃんが、「私の名前がかわいい」と言ってくれて、ありがとうと伝えたところでした。

神様、Iさん、娘ちゃん

改めて、

どうもありがとうございます。


そして、こう言ってあげたい。

「◯◯ちゃん、おじいちゃんが出向いて貰ってきてくれた、神様がつけて下さった名前を、生涯大切にして行こうね。」


そして、我が子にもそうして育ててきました。それをどう受け止めてきたのかは、子ども自身が思うことなので、私からは強要はできないですが😅😁


こんな風に、半世紀生きてきた私が、

幼い私を労うことで、

つらい記憶の、塗り替えりの作業を

始めたところです。


ここまでの段階にくるまで

何段🪜もありました。

ここまで来るには、

あることがきっかけになりました。


それは、先日、

ある心理カウンセラーの方の

毒親についてのHPにあった

一文を読んでからです。


「私の親は、私を愛してはいない」

です。

「愛してくれない」ではなく、

「愛してない」を意識したこと。

「愛してくれない」ではダメなんです。


「それじゃあ、今後は愛して欲しいと話せば理解してして愛情を持ってくれるのではないか」と期待してしまうからです。


絶対に受け入れたくない、聞きたくない言葉ですが、この一文を飲み込めたことが、


私自身の心を埋め合わせていく作業を、

本当の意味で、

心からできるようになってきたきっかけです。


でも、いきなりこの言葉を聞かされても、

ダメだったと思います。

何度も何度も、過去を掘り出して、

悲しみや苦しみ、怒り、憎しみ、恨みにいたるまで、否定することなく、

感じることを受け入れてからでないと、

私の場合は、進まなかったと

思います。


P.S.

自身で、

愛情不足を❤️‍🩹埋め合わせしていく作業。

無料スタンプを引用して表現しました。

「百会のツボ」を撫でられるのって、

気持ちが落ち着くんです。

「幸せのツボ」です。😇


ひとりっ子であることへの偏見・母の私への不満と怒り

小学生になったあたりからの話です。「ひとりっ子はわがままになるよ〜かわいそうだから、もうひとりいた方がいいよ〜」という言葉をよく耳にするようになりました。


その言葉には子どもながらにも、違和感のあるもので、あまりにも何回も聞くので、だんだん耳障りで、不快感に変わっていきました。


私が育った地域は、時代的なものもあったとは思いますが、

ひとりっ子率がとても低く、

ひと学年80名前後で、

5本の指に入るくらいしかいなかったのですが、

私はそのうちの一人。


まだ1年生くらいの時、

その中の、ある子に対して、

「あの子は甘えん坊でわがまま」という、ネガティブな意味合いの噂が流れていました。

そんな噂を耳にしてからでしょうか、まもなく、転校していきました。

後日談で、その子は、いじめを受けていたらしく、ご両親がこの土地に見切りをつけて、早々に転居したそうです。転校先では、彼女は活発になり、とても元気に通学しているという話も耳に入ってきました。


少数派に対して、異質なものに対して、排他的なこの雰囲気があり、その頃、他の要因もあり、またこれは後で書くつもりですが、

既にこの土地に住むのが何となく嫌で、自分には合わないなと思っていたので、

転校していったその子が

羨ましくて仕方なかったのを覚えています。


当時の女性担任教師も然り、

「太生谷さんの机の拭き方はおかしい」「こう畳んで拭かないとダメでしょ」と言い出したと思いきや、


他の生徒の前で、

「これだから、ひとりっ子は甘やかされてて何にもできないのよね〜(ふふふ…)」と、小馬鹿にしたうす笑いを浮かべて言い放ったのです。

私はものすごく赤面し、ことばが出なかった思い出があります

😣😰


普段から、「ひとりっ子は、どうのこうの、、、」とネガティブな言い方に辟易していたので、

先生にまで、しかも、

直に言われたのは、

もう「恥」でしかなく、

理不尽なことだな、とも思っていました。


その日は、どうしても、

納得できない気持ちを、

母に聞いてほしくて、

元気をなくしつつ、帰宅したのです。

その頃の私は、あの学校の雰囲気が合わなくて、やっとの思いで通学していました。「ただいま!お母さん、あのね、今日ね🥺、、」と聞いて貰いたくて、

縁側から入りました。しかし、

私の顔を見るや否や、


「おかえり」のひと言もなく、、いきなり、ベラベラベラ!!っと次のようにまくし立てる母でした。


「何で今日(授業参観で)手を挙げなかったのよ!😡あの問題の答えくらい分かってたでしょ?😡」


大袈裟かもしれないですが、

子どもの私にとっては、

よろけて倒れそうなところを、

バッサリ刀で切り裂かれ、

踏みつけられたような感覚でした。


身体も動かず、何の言葉も発することが出来ませんでした。

「あゝ そうだった、授業参観だったんだ😨と思い出しました。


母は不機嫌な顔で無視、

目も合わせてくれず、

何も話しかけてはくれませんでした。

今日の学校でのことは、とても話せる状況ではありませんでした。


当時、人前で発言するなんて、

とてもじゃないけど、

出来なかった私は、

「あゝ、何て自分はダメだな」とがっくりして、虚しさを感じつつ、「次は頑張らなくちゃ、また叱られるかな😣」と焦りを感じていました。


4歳5歳の時に、夜に放り出された日も、この日も、「どうして私はここで生てるんだろ😔」「もういなくなりたいよ😔」という気持ちでいたのを、ハッキリ覚えています。

子どもながらにも、

「家出をしようか、でも家出をしたところで、大した距離は行けないし、引き戻されて叱られるのが関の山だな、このまま我慢するしかないな😣」と考えていた私でした。



空を見上げながら、

4〜7歳の子どもがこんなことを考えていたなんて、やはり信じては貰えないでしょうかねえ。


でも、今は違います。

ため息ではなく、深呼吸して、

木々からの酸素を頂き、

身体じゅうに巡らせています。

☺️

続きます




私にとって「毒親」という単語は処方箋

こんにちは。 

ブログを始めたばかりで、

こんなに早く読んで下さる方がいらっしゃることに驚いてます😳ありがとうございます😌☺️




あゝ アッサムティーが美味しい。

心から美味しい、気分がいい、美しいなど、

じっくり感じる事を心がけるように

している日々です。☺️


本題に入ります。

毒親・機能不全家族と呼ぶ事に関しての、

続きです。


ことばの暴力も、精神的虐待。

そして、

「毒親」という和訳した単語も

ある書籍が出版されたことにより、

世に出るようになり、


私が苦しんできたモヤモヤ😶‍🌫️が、

例えて言うと、

わからない身体のツラい症状に、

初めて病名がついて、

なんだかホッと安心したような感覚です。


社会的に認知されない、脇に追いやられているような感覚も苦しみのひとつだったので。


「毒親」だなんて何てひどい表現なんだ、

どんな親にも、

そんな言い方するもんじゃない、

どんな親でも人間だ、人間完璧じゃない、

間違うこともあって当然、

育ててきてくれたことき感謝すべきだ、

という意見もあるのかもしれないですが、

これは、

「毒親」じゃない親に対しての考え方。


子どもが、「毒親だ」と感じたのならば

それを否定するものではなくて、


苦しんできた人間にとっては、

より心の苦しみが倍増するだけなので、

この意見は、

自分の心には処方箋は出しません。

うっかり処方しようものなら

苦しみが悪化するだけなので。


次は、心の膿みを出して行こうと思います。